山口県は岩国市にその処刑場はある。
情報が少なく、やっぱりというか、道がわからず
地元の人に聞いてみた。
引地峠はいまは草もボーボーで何もないところよ?
と言われましたが親切に教えて頂きました。
一応一里塚というのが、目印になるようですが、
引地峠というのは名前も出てきません。
地元の方のお話の通り、けもの道になっていました…。
蜘蛛の巣に引っかかりまくります。
しばらく進むと開けた場所に辿り着きました。
「引地峠処刑場跡」という石碑がありました。
岩国市指定文化財
引地峠の処刑場
当所は江戸時代の圧政のあかしとなる処刑場跡である。
昭和の初期まで、処刑される人々がつながれたという松の大木があった。
血刀を洗った池の跡も本郷側に残っている、ここで処刑された人達で、
記録により確認できるのはつぎの28人である。
慶長14年3月29日
「山代十ヶ村の庄屋10人と農民1人」
-検地反対を訴えて斬首、本郷物川渡にさらされる。
検地後山代の石高は3倍半となる。-
享保7年12月21日
「府谷の畔頭1人と農民2人」
-紙の買上げ価格、値上げを訴え斬首-
「同日、本郷の者1人」
-舅に不孝の行いあったため斬首-
慶応2年
「第2奇兵隊、山代出身者など6人」
-脱走、倉敷騒動参加のため斬首-
明治3年4月24日
「諸隊参加の山代出身者7人」
-脱退、暴動参加のため斬首-
右のうち、農民達のため自らの命をかけて訴え、処刑された人々の
心情を想うとき涙なくしては対処し得ない。
恵まれた時代に生きる幸せを思い、この地に果てた人々に、
深い鎮魂の祈りを捧げたい 合掌
少し峠を進んだ場所にあった太刀洗い池跡
写真ではわかりにくいですが、
ちょっと窪んだ場所あります。
池があったようには見えないですね…。
jmreさんレポート
山口県本郷村と美和町を結ぶ峠・引地峠にこの処刑場跡があります。
誰も訪れるような場所とは言えないような寂しすぎる場所です。
とりあえず処刑場の入り口にはこのような小さな看板?があるんですが
まず気付かないと思います。車で走ってる最中にこれを発見したんですが
はっきり言って奇跡だったかもしれません。よく見つかったもんです。
右上ノ道
壱里塚ニ至ル 約百米
処刑場跡ニ至ル 約百五十米
って書いてあると思うんですが、わかりますか?
処刑場跡へ行くにはこんな獣道をひたすら進まないといけません。
あまりの恐怖に冷や汗たらたらものです。
熊やら猪やら蛇やら何でもでてきそうですっごく怖かったです。
ようやく処刑場跡にきたみたいです。
看板?によるとここまで来るのに約150mだそうです。
実際はそんなもんじゃなかったような気がします;^^
「史跡 引地峠処刑場跡」ってあります。隣には説明板。
こんなものがあるって事はやはり
ここまで訪れる人の為にって事なんですよね。
美和町指定文化財
引地峠の処刑場
当初は江戸時代の圧政のあかしとなる処刑場跡である。
昭和の初期まで、処刑される人々がつながれたという松の大木があった。
血刀を洗った池の跡も本郷側に残っている。
ここで処刑された人達で、記録により確認できるのは、つぎの二十八人である。
慶長十四年三月二十九日
「山代十ヶ村の庄屋十人と農民一人」
___検地反対を訴えて斬首、本郷物川渡にさらされる、
検地後、山代の石高は三倍となる。___
享保七年十二月二十一日
「府谷の畔頭一人と農民二人」
___紙の買上げ価格、値上げを訴え斬首」。___
「同日、本郷の者一人」
___ 舅に不孝の行いあったため斬首。___
慶応二年
「第二奇兵隊、山代出身者など六人」
___脱走、倉敷騒動参加のため斬首。___
明治三年四月二四日
「諸体、暴動参加のため斬首。___
右のうち、農民達のため自ら命をかけて訴え、
処刑された人々の心情を想うとき涙なくしては対処し得ない。
恵まれた時代に生きる幸せを思い、
この地に果てた人々に、深い鎮魂の祈りを捧げたい。
合掌
平成元年四月
美和町教育委員会
罪もないのに処刑され、斬首された名も無き28人の人達。
しかも記録で確認できた方のみ。
相当な無念を残したまま、亡くなられたのだと思います。
無念が怨念と化してこの地をさまよい続けてるんでしょうか・・・・
このちょっとしただだっぴろい広場において処刑が行われたのです。
今では人々の記憶にすら残らないであろう深い深い山奥。
ほんとに胸のつまる思いです。
ところで・・・
決して空耳でも勘違いでもないんですがこの地に来た途端、
妙にせつないような寂しいようなメロディがきこえてきました。
自分の耳にはっきりとです。
音楽なんぞきこえてくるはずがないのに・・・・
不思議と怖いというような感覚はありませんでした。
以上、引地峠処刑場跡についてのレポでした。