おいらん堂。
山梨といえば花魁淵という心霊スポットがすぐに
思いつくかもしれない。
花魁淵で亡くなった花魁達はこのおいらん堂付近まで
流れてきたのだ。
結構探しました…。
現地に着くと急に雨が…。
こちらがおいらん堂。
なんか新しい感じが…
それもそのはず、再建したようである。
内部。
神棚?と位牌が並ぶ。
神棚かと思ったら、なかには木像人形(デク)が…
この看板の下の自然石がおいらん堂の跡。
おいらん堂のいわれ
これより西方約9キロメートルのところに鶏冠山(標高1710m)があり
その山の中腹に黒川金山の採掘跡がある。
黒川金山の採鉱は、甲斐武田氏は盛んなころ、とくに
武田信玄の時代が最盛期であった。世にいう甲州金は、
多くこの金山から産出されたものといわれている。
当時は金山奉行も丹波に置かれ黒川千軒、丹波千軒と
称せられるほどの大集落があったと伝えられている。
黒川金山跡には、その時代の坑道跡や坑夫の住居、作業場の跡が
今でも見られる。
金山の盛時には、採掘坑夫の慰安のため遊女を多く置いたという。
ところが長篠で敗れたが武田家再興を図るため
ついに閉山となるが、そのおり遊女たちから金山の秘密が
洩れることを防ぐため、柳沢川の渓谷に宴台を作り、
慰安と称してその上で舞いを舞わせた。舞いの最中、
ころをはかり宴台を吊っていた藤づるを切って、宴台もろとも
遊女たちを淵へ沈めた。
このことから「おいらん淵」の伝説が生まれた。
また、沈められた遊女の数が55人ということから、またの名を
「五五人淵」ともいう。「おいらん淵」は、ここから西方の
上流8キロメートルのところにある。
下流にある本村の奥秋部落には、その沈められた遊女の
死体が多く流れついた。哀れに思った村人たちはその遊女の
亡骸を引き上げ、お堂を建てて手厚く葬ったという。
この地がそのお堂のあった跡である。このお堂には、木で彫った
人形(デクと称した)を供え、後世「おいらん屋敷」とも
「おいらん堂」とも呼ばれて長く供養したと伝えられている。
お堂は昭和のはじめのころもあり、村の子供たちのよい
遊び場で、供えられた人形で遊ぶ姿が見られたそうであるが
いつかお堂は長年の風雪で朽ちて落ちた。現在は数個の
自然石が見られるだけで往時を偲ぶにはあまりにもさびしく、
よってお堂は昭和63年4月地区村民の多くの手によって
再建された。
丹波山村
また、別の伝説ではおいらん堂付近に流れついた花魁が、
1人生きており、周辺村人に助けを呼んだが、
武田家の圧力で村人は全員花魁を放置し、
花魁は村人を呪いながら亡くなったという伝説もある。