刑場犠牲者千人に対して供養塔1基建立という話もある。
基本的には江戸時代の罪人供養は禁止であった。
しかし全国の処刑場跡には供養碑などが
建立されている事がほとんどである。
処刑場跡に行くとほとんどの慰霊碑に
「南無妙法蓮華経」とある。
ヒゲ題目とも呼ばれている。
処刑場跡の供養は日蓮宗が
独占的にやっているかというとそうではない。
しかし全国的である。
ちなみに写真は関宿藩処刑場跡(千葉県)と言われている。
正確な記録が残っているわけではないのに、ここが処刑場と
特定されたひとつにこの石碑があると思われる。
東京都内でも江戸の二大処刑場のひとつ、
小塚原処刑場跡にも南無妙法蓮華経のヒゲ題目がある。
ちなみに回向院は浄土宗である。日蓮宗ではない。
理由は神奈川県の龍ノ口処刑場にある。
ここは有名な「日蓮の龍ノ口法難」があった場所とされる。
「日蓮の龍ノ口法難」とは、日蓮宗の開祖である
日蓮上人が、1271年(鎌倉時代)にこの地で処刑されそうになる。
看板では
龍の口刑場跡
当地は鎌倉幕府時代の刑場跡で、
文永八年(1271)九月十三日子丑の刻(午前二時)
日蓮聖人は立正安国論の諌言により、
この刑場敷皮石(首・座)にすえられ
時あたかも江の島の方より満月の如き光りものが飛び来りて、
役人共は眼がくらみ、この奇瑞の為
ついに聖人の首を斬ることが出来なかった
即ち日蓮聖人龍の口法難の霊場であります
寂光山 龍口寺
つまり、日蓮上人が処刑されそうになったとき、
奇跡が起こって日蓮上人が助かったという伝説である。
全国の処刑場供養が南無妙法蓮華経のヒゲ題目なのは、
これにあやかっている。江戸時代に流行したらしい。
刑死者に希望の光をという意味で建立されている。
ただし、日蓮宗の施設等には普通にある石碑なので
これがあるからといって必ずそこが処刑場跡なわけではない。
その他の処刑場供養塔としては、以下のようなものがある。
平福藩処刑場跡(兵庫県)の念仏碑
南無阿弥陀佛の念仏碑である。
こちらも処刑場跡供養碑としては多い。
粟田口処刑場跡(京都府)にある
萬霊供養塔
日出藩成敗場跡(大分県)
大乗妙典石書塔
藩の藩主の信仰する宗派で違っていたりもする。
全国各地に「首切り地蔵」と呼ばれる地蔵がある。
その名の通り「首切り場の地蔵」である。
現在も存在するその首切り地蔵は
「処刑場跡地」の場所を伝える数少ない史跡と言える。
が、近年は区画整理など、元々の場所より移されたり、
そのまま行方不明になる例もあるという。
小塚原処刑場跡の首切り地蔵(全国で最大と思われる)
いわゆる処刑場跡地は「忌み地」であり、
そうしたイメージを嫌う周辺の人々によって
葬り去られてしまうのである。
「首切り地蔵」だった地蔵が不吉なので…と名前を
変えられている例もあった。
処刑場が現役の時に首切り地蔵はどこにあったか、
それは処刑場によって違うようである。
首切り場の目の前にあったものもあれば、
処刑場の入り口のすぐ近くにあったなど様々である。
ちなみに江戸時代の処刑場で処刑された罪人の供養は
基本的にご法度である。
だが、処刑場の中に「首切り地蔵」があった例なども
あるため、幕府・諸藩は黙認していたと思われる。
首切り地蔵も、様々伝説ができることがあるが、
その中でも最も多いのが、首が何度も落ちるという
伝説である。これは「首切り地蔵」にちなんだ、
最も多い伝説である。
あと、同じ「首切り地蔵」でもなんだかの原因で
本当に首を切られたなどの地蔵も「首切り地蔵」と
呼ばれたりしているようだ。