江戸時代における処刑場はそのほとんどが明治初期まで使用され、
「忌み地」として跡地をなにも開発しない状態にした後、
多くは史跡としての保全されるか寺社仏閣(祠含む)を建て、
供養されているものが多い。
次に多いのが公共施設。買い上げる民間企業もなく、
地方自治体が買い上げて公園・道路・学校など公共施設などにする場合もある。
完全に民間の住宅地・会社敷地になっている場所もある。
さらに土地の時代の流れで完全に無くなってしまった場所も少なくない。開発の為、
現地にあった供養塔などはどこかの寺社仏閣に預けられ、跡形もない場所。
首切地蔵を海外に転売した例もある。
供養塔を塀につかったという例も…。
江戸時代よりさらに古いものとなると、また事情が変わってくる。
処刑場に関しての文献は数が少なく、
江戸時代のものでも場所がはっきりわからないものがある。
実は処刑場の処刑人数を正確に記録した文献は見つかっておらず、
各地処刑場跡地で公開されている人数は予測でしかない。
江戸時代以前に関しては戦乱期に文献が燃えてなくなってしまったりして、
処刑場の記録そのものが失われ、人々の言い伝えで伝わってきた
「伝 処刑場跡」が増えてくる。
私の小学校はかつて処刑場でした…。という怖い話を聞くことがあるが、
結構間違っていることが多い。
むしろ由来のはっきりしないお地蔵様がある場所の方が怪しい。
判断材料としては「処刑場に選ばれやすい土地」をご覧頂きたい。