大正寺
野村増右衛門供養塔
野村増右衛門吉正は島田(現在の桑名市島田)に生まれ
初めは郡代の手代という軽い身分でしたがしだいに重用され
その勢力は藩の重臣をしのぐ程になっていた。
増右衛門の功績は河川改修工事や新田の開発、山森造成など
多大なものでしたが、宝永7年(1710)藩の公金を盗用した
罪に問われ死刑となりました。この時一族44名も死刑となり、
その関係者も追放や免職となり罪人の数は370人に及びました。
この事件により藩主松平定重は越後高田(現在の新潟県上越市)
に国替えを命じられました。この事件は、わずかな罪によって
多くの罪人を出したところから謎とされています。
文政6年(1823)に定重の子孫定永が再び桑名へ国替えとなると
増右衛門の罪は許され文政10年(1827)に処刑者44名の
名を刻んだ供養塔が建てられました。
もともとあった供養塔は後にこの大正寺に移されました。
その際一族44名の名前が書いた銅版が発掘されたそうです。
南無阿弥陀佛の念仏碑
こちらが44名の供養塔と思われます。
この大粛清は野村増右衛門へ私怨を抱いた
藩の重臣たちの企みだったと言われています。
付近にあった地蔵立像。