寿庵は伊達正宗の家臣で、熱心なカトリック信者であった。
見分村(現水沢)の福原に1200石の領主として召しかかえられ
数々の開拓の功績があった。元和9年のキリシタン弾圧で、
南部にのがれてから350年間消息不明であったが、昭和26年3月
宮城県史編纂委員によって碑が発見されて、当時、
建てられた無名の碑が残っている。
昭和29年にこの碑が建てられた。
元和6年(1620)からは仙台藩の切支丹取締りが厳しさを増し、
寿庵は正宗公からの「転宗せよ」との命令を拒み続けいたが、
元和9年(1623)ついに抗しきれずに南部領に逃れ(追放)たのである。
その後寿庵の足跡は全く途絶えていたが、寛永のはじめ
狼河原村(現米川)仲上沢及川家の世話で、後ろの山へ
庵を建てて住んでいたが、養子を迎えることになり、
西神沢に移り住んだと伝わっている。
その家が現在の畑中後藤家である。
この地での生活も長く続かず、密告によって、ある朝
役人に寝込みを襲われ、前の畑で所成敗された。
遺体は塩漬けにされて、逆さまに埋め、鍋を被せられた。
墓は立てることができず目印とした
無名の丸石が寿庵の墓として後藤家の旧墓地にあり今も
大事に供養されている。
後藤家は、寛永18年(1641)の人数改帳、享保9年(1724)の
宗門改帳、元文4年(1739)の人数改帳にも
切支丹類族が続いている旧家である。
旧墓地前の大きな寿庵の墓は昭和27年に米川村が建立した供養碑である。
石碑に向かって右側には古い墓が並ぶ。
そしてこの古い墓石の中に後藤寿庵の墓であると
発見されたものがある。
真ん中の古い墓石に「天齢延壽巷主」とある。