一里塚標
江戸時代の旧街道には、距離を知らせるために一里ごとに
道標や塚が設けられた。内之田地区は飫肥城下から一里の
距離にあり、ここに「一里」を示す道標が立っていた。
この道標は旧街道沿いから移設されたものである。
当時は、近くにある処刑場とのわかれ道のところに立っていたという。
この処刑場付近の字名を一里松というがこれは
処刑場に大きな松が茂っていたことから、一里の
道標と松の木をとって一里松と名付けられたと伝えられている。
さらにそこから離れた場所に首洗い井戸の組石があるという。
早速探すがさっぱり場所がわからず…
農作業中のおじいさんに聞くと、親切に道案内してくれました。
首洗い井戸組石
内之田処刑場は、飫肥藩の重罪人の処刑場として幾多の
斬殺の刑が行われたところである。
小高い丘陵地にあり、遠くから望見できたという。
処刑場には役人の控番小屋・処刑台場・洗い井戸があり、
罪人は砂利敷きの小庭を通って処刑場に向かった。
処刑された罪人の首を首洗い井戸で洗ったと言われている。
現在は、周辺の地形も大きく変わり、首洗い井戸であったと
言われる組石が2,3個残っているだけであった。
草むらの中に組石と思われる石が見て取れる。
案内してくれたおじいさんによると洪水で流されて、
とりあえずここに置いているとのこと。
本当の処刑場があった場所は
はっきりはわからなくなってしまったとのことでした。
首切り地蔵はさらに下流に流されたとのこと。
首洗い井戸の組石からさらに
下流の橋のすぐそばに小さな祠がある。
石地蔵菩薩
飫肥藩主が高僧の請を受けて、
処刑者の霊を供養するために彫らせたといわれており、
作名等はないが江戸時代の作と思われる。
座高140㎝、頭周り110㎝、肩幅55㎝の蓮花の上に
坐した半跏像である。
もとは近くにあった飫肥藩処刑場に
たてられていたが、昭和14年の大洪水で
松永橋近くまで流された。
以前は六角の大きな台座があったが、
洪水時に流されて不明である。
戦後だれいうことなく首切り地蔵と呼ばれるようになった。
結構大きな地蔵です。
洪水で流されて、元の場所に戻さずに
ここに安置したのは大きさの問題もあったのでしょう。
しかし大きな石地蔵です。