黒瀬の辻殉教碑
現在は公園化され、聖地とされています。
ここ黒瀬の辻は、生月のキリシタンにとっては
信仰の原点とも言える最高の聖地です。
1558年、生月で最初にキリスト教の布教をした
ガスパル・ヴィレラ神父はこの地に大きな十字架を建て、
その周囲を塀で囲み、信者たちの墓としました。
生月を訪れた人は、まずこの地に案内され、
祈りを捧げたと言われています。
また1563年には新しい十字架が
コスメ・デ・トルレス神父によって祝聖・建立されたことが、
イエズス会修道士フェルナンデスによって
次のように述べられています。
「この年の元旦に生月で、これまで日本で建てたものの中で
最も美麗な十字架を建てました。
わたしたちは1千人ほどの信者とともに長い行列をし、
みんな花輪を被り、聖歌を歌いながら行進しました。
十字架の所に着くと神に賛美を捧げ、
それから十字架を称賛し、これを崇敬する理由についての
説教をききました」
黒瀬の辻の十字架は。こうして生月のキリシタンの信仰を養い育て、
見守ってきました。
そして迫害の嵐が吹き始め、目に見える十字架は取り去られた後も
「あの十字架のもとで命を捧げたい」との願いは残りました。
1609年、生月最初の殉教者となったガスパル西玄可とその家族は、
この地で殉教し葬られています。
また、中江の島で殉教した多くのキリシタンたちも
十字架を心の中に思い浮かべながら、舟にゆられ、
最後の祈りの中でここから天国は遠くないという確信を得て、
その命を神に捧げていきました。
わたしたちは、こうした生月の多くの殉教者たちの遺徳が
これからも讃えられ、その精神が子々孫々にまで
心に刻まれていくことをこの記念碑建立の願いとします。
近くによるとなんとも大きくて圧倒されますね。
レリーフの絵が少々怖く見えますが…
こっちも少し怖いですね。
この十字架のすぐそばにガスパル様が存在します。
ガスパル様
永禄6年(1563)この地に十字架を建て、
千人を越す人々が聖歌を唱し大行進を行った。
生月切支丹の全盛時代であった。
人々はこの地をクルスの辻と称した。
今では黒瀬の辻と呼ばれている。
天正10年(1582)山田の領主籠手田安経が急死、
慶長2年(1597)平戸藩は籠手田氏の所領を没収、
井上宗円の支配地とした。
翌々年には籠手田安一(安経の子)は追放となり
長崎に亡命する。
生月の切支丹にとって最初の悲しみであった。
しかし籠手田の生月領総奉行であったガスパル西玄可は、
生月に残り多くの切支丹信者の指導に当った。
だが幕府の禁教令、平戸藩のきびしい弾圧に、
黒瀬の辻での殉教を望み、慶長14年(1609)
妻ウルスラそい、長男ジョアン又市と共に
親交のあった、生月奉行井上右馬允信貞(宗円の子)
によって処刑された。
ちなみに、二男トマス兵次(六左エ門)は後に司祭となり、
1634年長崎で殉教、後年聖人に列せられる。
三男ミゲル加左衛門も同年殉教、一族熱心な
クリスチャンであった。
背後の山の中はやはり古い墓地であったような
跡が見受けられる。