ここは陸軍病院第一外科及び糸数分室所属の軍医看護婦、
沖縄師範学校女子部、沖縄県立第一高等女学校職員生の徒のいた壕である。
米軍の迫まる1945年6月18日夜、軍より学徒隊は解散を命ぜられ、
弾雨の中をさまよい照屋秀夫教授以下、多くはついに消息をたった。
軍医、看護婦患者も同じく死線を行く生死のわかれの地点である。
ここで負傷戦没した生徒、
古波蔵満子、荻堂ウタ子、牧志鶴子、石川清子、浜元春子、
知念芳、神田幸子、比嘉ヨシ、照屋貞子。
藤野憲夫沖縄県立第一中学校長もここで最後を遂げた。
謹んで記して御冥福を祈り、平和を祈願する。
1945年5月末、学徒隊は南風原陸軍病院壕などから
日本軍とともに本島南部に撤退し、摩文仁村(現糸満市)伊原に到着。
山城本部壕や伊原第三外科壕、
伊原糸数分室壕(後の伊原第一外科壕)などに学徒が配置された。
第一外科壕では6月17日、至近弾が爆発し、学徒3人が死亡。
18日、日本軍が解散命令を出し、同壕は重傷の学徒9人が取り残され、
米軍に投降した2人を除いて死亡した。
壕を出た学徒も多くが亡くなった。
(琉球新報より引用)
中は狭く千羽鶴があった。
地下約12m長さは約40m
合掌。