大分県中津市寺町
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通称「赤壁」といわれるこの寺は浄土宗西山派
開山空誉上人は天正15年(1587年)黒田孝高(如水)に従って姫路から中津に来錫した。
その後天正17年4月孝高が前領主宇都宮鎮房を謀略結婚により中津城内に
誘殺したとき、その従臣らが中津城を脱出し、この寺を拠点として奮戦し最期をとげた。
以来門前の白壁は幾度塗り替えても血痕が消えないので、遂に赤色に塗られるようになった。
当時の激戦の様子は現在も庫裏(くり)の大黒柱に刃痕が点々と残されている。
また戦死した宇都宮家の家臣は合葬し、寺内の延命地蔵菩薩堂に祀り菩提を弔った。
その空誉上人は宇都宮鎮房の庶子であったといわれ、文武の道に秀で、世人の崇敬が篤かったため、
後事をおそれ慶長16年黒田長政に福岡城で誘殺されたという哀史を秘めた寺である。
寺内には、三浦梅園・倉成龍渚の師・儒学者藤田敬所(藤貞一)の墓がある。
後のお堂は経蔵である。
中津市教育委員会
中津の郷土史を語る会
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門
お寺で飼われている犬がひなたぼっこ中。
本当に壁が赤く、すごく目立つ。
庫裏(合元寺のご住職住居)
なんと内部の壁まで赤い。
さて右側の大黒柱。
「当時の激戦の様子は現在も庫裏(くり)の
大黒柱に刃痕が点々と残されている。」
とあり、この柱の事だそうである。
刃痕はこの斜めの傷。
いくつかこの柱に斜めに入った傷がありました。
さて合元寺のこの事件は中津城からはじまります。
中津城
城井神社
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城井神社(きいじんじゃ)
御祭神 宇都宮鎮房
城井谷城主宇都宮家は信房より鎮房に至る16代およそ400年の間豊前国守として徳政を布いた。
天正15年(1587年)5月豊臣秀吉は九州平定にあたり豊前六郡を黒田孝高に、二郡を毛利勝信に与え、
鎮房には四国今治(12万石)移封の御証判を与えた。
鎮房は累代の墳墓の地の安堵を願い、このご朱印状を返上したため、
宇都宮一族は黒田孝高、長政と豊前の地で
死闘を繰り返すこととなり、黒岩山合戦(峯合戦)では長政を敗退させた。
そこで秀吉は孝高と謀り所領安堵を条件として長政と鎮房の息女千代姫(鶴姫)との婚を約し和睦した。
天正16年(1588年)4月20日鎮房は中津城に招かれ酒宴の席で謀殺された。
天正19年長政は深く感する処があって
城内守護紀府(城井)大明神として鎮房を祀り、福岡移封後はその地に警固大明神を祀った。
宝永2年(1705年)小笠原長円は小社を建て城井大権現として崇め、その後幾度かの変遷の後
城井神社と改められた。
中津市
中津の郷土史を語る会
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扇城神社
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扇城神社
宇都宮鎮房公臣45柱
天正16年(1588年)宇都宮鎮房公従臣は、
庶子空誉上人(鎮房公と静の方の間に生まれた)の合元寺に
止め置かれ、鎮房公は小姓松田小吉を伴い中津城内の館で謀殺された。
異変を知った家臣群は次々に城中に駆け上がり、龍が荒れるように戦った。
小姓松田小吉は19人に手傷を負わせ京町筋で討死、
野田新助・吉岡八太夫は手傷を負い広津広運寺まで切り抜け追腹、
その他二士は合元寺門前に戦い遂に庫裏にて討死、その他ことごとく討死した。
家老渡辺右京進は7・8人を薙ぎ伏せたという。
松田小吉は小吉稲荷として京町に野田新助・吉岡八太夫は広運寺にそれぞれ埋葬され、
その他の従臣の遺体は寄せられ城内乾の上段、この地に埋葬された。
宝永2年(1705年)小笠原長円は広運寺追腹の二士を小吉稲荷大明神とともに祀った。
その後変遷。城井神社再興後、大正9年(1920年)4月20日、
鎮房公従臣45柱を境内末社として祀ったのである。
中津市
中津の郷土史を語る会
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赤壁合元寺にある合元寺開山・空誉上人の墓。
もちろんこれはお墓だけ。
詳細は「空誉上人」
赤壁合元寺のお願い地蔵。
拝観の際にお願いしてみては?