首切り地蔵
天正12年(1584)のはじめ、佐野城主宗綱が、小田原北条氏の出城になって
いた榎本城(太平町)を攻め落とした。城主榎本大隈守高満は逃れて小田原へ落ちのび
北條氏直に頼った。氏直は大兵をくり出し家綱を攻めたが攻めきれず、北条勢の多くが
捕虜となり、榎本の東の上泉の地で斬首された。
土地の人たちはみごたらしく殺された多くの霊を慰め、あわせて榎本方の戦死者を供養
するために、そこに地蔵菩薩を造立した。
誰言うとなく「首切り地蔵」と名がついて、毎年3月14日に、おむすびとお花を供え
供養するならわしになった。しかし、その日は例年のように涙雨が降ったと言う。
その後、昭和43年に土地改良のために地蔵菩薩は円満寺境内に安置されるように
なった。そしてこのならわしは上泉の女性たちに代々受け継がれている。
円満寺
こちらが首切り地蔵。
境内の一角にあります。
小さなお堂の中にあります。
説明板つきですね。
傍らには小さなお地蔵様が…
ツタのようなものが絡んでます。
さて、この首切り地蔵ですが、刻まれた文字によって
元の首切り地蔵ではなく、取り違えられていることがわかった。
土地改良の時か、はたまたもっと昔なのか…。
いつごろからかわからないが、このお地蔵様は
首切り地蔵になってしまった。