江戸伝馬町処刑場跡
江戸の牢屋敷は慶長18年(1613)に、常盤橋外からこの小伝馬町に移転した。
代々与力格の石出帯刀が牢屋敷預りに任命されており、管理していた。
そして、明治8年(1875)5月廃止されるまで存続していたものである。
「御府内備考」の記録によれば、その規模の広大であったことがわかる。
すなわち、面積は2、618坪(8639.四平方メートル)あり、
さらに、これの敷地の四方を堀でめぐらしていた。
南西部に表門があった。
獄舎は、揚座敷、揚屋、大牢および女牢部屋に分かれ、
明暦3年(1657)の収容因人は130人であり、
安政大獄(1859)には吉田松陰ら五十余名が収容されたこともある。
※看板に修正が入っていました。
伝馬町牢屋敷跡
大安楽寺・村雲別院・身延別院・十思小学校及び十思公園を含む
一帯の地は江戸時代の伝馬町牢屋敷跡である
牢屋敷は慶長の頃常盤橋際より移り明治8年5月市ヶ谷囚獄が
出来る迄存した
幕末の時牢屋敷に大番衆石出帯刀、御?御用山田浅右衛門がつとめた
当時勤王志士96名が処刑されている
吉田松陰先生終焉之地
長門の藩士吉田松陰先生は兵学に通じ、憂国慨世の念篤く、
萩の松下村塾で多くの人士養成は遂に有爵者6名、
贈位者17名、有位者14名といふ著名士を出した。
先生は國事を論じた罪により安政6年7月伝馬町牢に囚はれ、
同年10月27日時30歳にて惜しくも最期を遂げた
十思公園内の石碑
江戸時代当初の時の鐘で、初め江戸城にあり、
二代将軍秀忠の時是を石町に移し、
地元四百十町より集めた鐘楼銭で維持され、
幕末まで石町時の鐘として親しまれた鐘楼櫓下では蕪村等が
夜半亭と号して俳諧の集ひをしていた事は有名である
伝馬町牢に於ける処刑時もこの鐘を合図に執行されたが、
定時に鳴るべき鐘が処刑者の延命を祈るが如く
その都度遅れたとあって一名情けの鐘とも傅えらる
現鐘は旧楼焼損後宝永八年に改鋳したもので
銘に宝永辛卯四月中浣鋳物師大工椎名伊予藤原重休とある
昭和5年9月 石町宝永時鐘々楼建設会に依り十思公園に移され
廿8年11月都重宝に指定さる
当日大安楽寺が工事中でした…。
後日大安楽寺に再び訪れました。
工事は終わってますね。
小伝馬の牢屋敷は明治時代になり廃止された。
しかし、斬首刑を行っていたその土地は誰も手を付けず
荒れ放題となっていた。
そこに大安楽寺を建てた。
大安楽寺はそのもっとも黒い部分、
斬首を行っていた場所に建てられたという。
大安楽寺 延命地蔵
身延別院
こちらは日蓮宗のお寺である。
こちらも小伝馬の牢屋敷の敷地内であった。
身延別院のヒゲ題目
これが小伝馬の牢屋敷の供養塔となっている。