投稿者:丸だし御前さん
僕はいわゆる「心霊スポット」としての軍艦島ではなく、
「鉱山」「産業遺跡」としての、あるいはかつて
多くの人々が暮らしていた「故郷」としての軍艦島に注目し、
研究しています。
僕はこの島に18歳まで住んでいたある方の関係で、
今年の夏、島へ渡りました。
本当は三菱マテリアル(当時 現在は高島町)の私有地であり、
立ち入り禁止なのですが、
実際は釣り客や「廃墟マニア」が渡島しています。
彼等の中には落書き、ゴミのぽいすてなど、
島を荒らしていく連中もあり、大変腹立たしく思っています。
僕が島へ渡ることができたのは、島を熟知している方の案内もあっての事で、
又同行したグループ(その方の主催)な方々も
真剣に島を「愛して」いる人々です。
建物の痛みは非常に激しく、大変危険な場所です。
いつ足元のコンクリートが崩れるか、
壁が剥離、落下してくるかわかりません。
命の保証はできません。
素人が島へ渡ることは絶対に容認できません。
私もたった24時間で4回は「死ぬかな?」という思いをしました。
ただの廃墟ではありません。潮風の影響が強く、
「コンクリート風化の実験場」とも言われている場所です。
さて、僕の主観ではこの島を「心霊スポット」として扱うことには
抵抗があります。
何も出ません(断言)。
外から見るとぞっとする異様な光景のこの島ですが、
実際に上陸してみると、ちっとも怖くもなんともありません。
確かに複雑なこの立体都市には圧倒され言葉もありません。
しかし巷の廃墟のようなムードはまったくなく、
むしろやさしい、温かい光に包まれている、そういえるでしょう。
初めてきた場所なのになぜか懐かしく、気持ちが安らぐのです。
高層アパートや学校(7階建て)を歩いていると、
青い海、風の音に波の音、そして穏やかな
夏の夕暮れの日差しが包み込んできます。
そして、この島で暮らしていた人々の喧騒が聞こえるような気がしました。
その夜、元在住者の方から話を聞きました。
その方は1ヶ月ほど前の7月7日に島を訪れていました。
一通り島を回り、神社のあった高台へきたとき、
なぜかお祭りの太鼓の音がしたそうです。
その日、近くで(高島、高浜)祭りはありません。
そのあと、いつも行くことのなかった65号棟北側の回廊をとおり、
学校の講堂へ行ったとき、壇上に一冊のノートをみつけました。
普段は気にとめないのですが、その時は手にとりました。
するとそれは氏の同級生だった女性のもので、
英語の書き取りがきれいにされていました。
その時氏は気つきました。
さっき通った、いつもは絶対通ることのなかった
回廊のところが彼女の部屋であり、
その彼女はすでに亡くなっていること・・・。
後日、遺族の方を探し、そのノートを送ったところ丁重なお礼が届きました。
その日は8月13日。彼女の命日でした。
僕たちも、彼女の部屋でお線香をあげました。
氏は「この島には、魂が帰ってくる」と言います。
もうひとつは、この島の学校の岸壁のところには閉山前、
お地蔵さんがありました。
戦前、この島に釣りに来た方が行方不明になり、
その霊を慰めるために建てられました。
しかし、閉山前に台風で島はおおきな被害を受けたことがあり、
その時に粉砕された岸壁もろとも流されてしまいました。
それから時がたち昭和49年島は無人化、
以来灯の消えた島には何人かの写真家が渡ってきました。
その一人が、ある建物に朽ちかけた地蔵が立てかけてあるのを見つけ、
写真をとり、その写真集は発売されています。
しかしその後、お地蔵さんが見つかることはあろませんでした。
そのほかにもこの島でおかっぱの女の子を見たと言う人や
夜に赤や青の光の玉を見たという人がいます。
氏も、島で撮った写真に赤、青、黄色の光の玉が写ったことがあり、
みせてくれました。
実はこのとき、僕たちも65号棟の3階トイレのところに
ひかる赤や青の光を見ました。
ゆらゆらゆれ、消えたり点いたりを繰りかえし、
ときにはこちらを照らすように光ったこともあります。
夜でしたがみんなで見に行き、結局何もわかりませんでしたが、
この島で心霊的な「怖い」というイメージを抱くことはなく、
ほかの人もそうでした。
閉山後28年、いまでも多くの人の熱い記憶の中に、
この島は「生き」ているのです。
端島(軍艦島)が世界遺産に登録される可能性もでてきました。
高島町で検討されています。