愛媛県に古寺地蔵尊という地蔵尊がある。
古寺地蔵尊由緒沿革
ここ古寺には、もともと真光寺があった。
同寺が移転したため、松山藩はこの跡地を処刑場とした。
以来、ここは多くの罪人が処刑されてきた地である。
貞享年間、高い年貢に加え打ち続く凶作のため、百姓の
生活は悲惨さを極めてうた。延喜村の庄屋、八木忠左衛門は彼等の
生活を座視することが出来ず、藩主に年貢軽減の直訴に及んだ。
忠左衛門はその罪を問われ貞享3年(1686)せがれ小太郎と共に
ここ古寺の処刑場で斬首。さらし首に処せられた。
延喜村を中心とする野間郡の百姓たちは、命を賭して直訴した
忠左衛門を義民と称え、ひそかに地蔵尊を建ててその菩提を
弔った。その後、この地蔵尊は火難、悪病、厄除け地蔵として
人々の信仰を集めてきた。
下って明治2年(1869)、野間郡大庄屋井出氏により、
処刑された人々の霊を慰めるため、大乗妙典一石一字の供養塔が建てられた。
さらに大正13年(1924)、同年5月18日には、下町を中心とする
有志の方々によって近郷近在で御詠歌を唱えて浄財を募ったり、
部落の方々の寄付により隣接地を購入して境内を拡張し、
新しく御堂が建立された。
以来、新町部落はこの古寺地蔵堂の維持管理を下町部落に委嘱し
毎月23日を御命日として御堂供膳を供えて祭り、殊に新暦8月23日を
御縁日として下町総出でダシ(藁人形)を作り、表通りに飾って
賑やかに供養してきた、参詣の人々は「大井古寺火難悪病厄除お守」を
授かり、盆踊りも盛んで夜店も出るなど大変賑わった。
その後六十有余年の歳月を経た御堂も老朽化が進み、
部落内外の人々から寄付を仰いで、昭和60年3月17日、
古寺地蔵尊の新築再建を見るに至った。
ここ古寺地蔵尊の功徳に感謝し、先人の業績を忍ぶと共に、
この尊い遺産を後世に伝え残したい。
地蔵堂内部。
地蔵堂建立の際にも人骨が発掘された…という話も。
奥にお地蔵様があります。
処刑場跡供養ですから首切地蔵という位置づけだと
思うのですが、安らかな顔をしています。
処刑場供養がうまくいった例ではないかと思っています。