殆どの地図にはここは載っていません。
峠の両端に二体の首無し地蔵あり、
東側には他に二体のお地蔵様がありました。
寛文二(1662)年の小竹村の大凶作の時、
庄屋勘四郎と組頭又四郎の二人が、
藩に免租の直訴をしたため斬首されたので、
村人が二つの地蔵を造って供養したものと言う。
ただ、この地蔵の首は、何度付け直しても、
いつの何か無くなってしまうので、首無し地蔵の名が生まれた。
この峠から一キロばかり東の山麗にある寺の山門の脇には、
助四郎、又四郎の墓と言うものがある。
これは、海鳥社/伊藤 篤/福岡の怨霊伝説、
という本に載っていたものです。
西側のお地蔵様には
安永二年と掘られていました。
その奥のは峠の神との事です。
反対脇の岩も何かあるような気が・・・
このあたりにはかつて十三塚があったということです。
享保十七(1732)年頃、並びに天命八(1788)年頃にも、
福岡藩の各地は大飢饉に見舞われた。
その頃の話と思われる。
島郷の辺りの飢饉も激しいものがあり、その窮状を見るに絶えず、
ついに、外小竹の義民十三人が村人の代表となって、藩に免租を願い出た。
ところが、非常にも全員捕縛されて打首となった。
村人たちは、彼ら犠牲者の霊を弔うためにこの十三塚を築いたと言うのである。
なお、天明の飢饉では、江川沿いの払川で『お下げ米』が下されると言うので、
農民たちは、先を争って山道を払川に向かった。
途中、峠を越える辺りで、力尽きて行き倒れになる物が少なくなかった。
この辺りには、これらの死者の森塚がたくさんあったと言う話である。
これが十三塚とどんな関わりがあるのかは分からない。
なお、首無し地蔵の建立は、十三塚説話の成立より、
さらに百年前後も遡った時代の話である。
と言う事です。
参考文献:海鳥社/伊藤 篤/福岡の怨霊伝説