福島県の某所に鶴芝という地名の場所がある。
ここはかつて「吊るし場」が「鶴芝」になったもの。
「吊るし場」の名前の由来は江戸時代初期、
キリシタン弾圧の舞台となった場所である。
吊るし場すなわち、
「逆さ磔(はりつけ)」が行われた場所である。
逆さ磔はその名の通り、頭を下に木に縛り付ける刑罰である。
現在住宅街ではあるものの空地が目立つ。
白河街道であったこの場所は史跡も目立つ。
戊辰の役古戦場
市内の九番町の西端、ここ松並にあり、
南は水田が開け、北は稲荷山の小丘を慶応4年(1868)
奥羽諸藩鎮定のために薩長大垣等の西軍が大挙して
三方から白河を攻めた。
東軍の会津、仙台、棚倉の兵は、
白河城の南西の山に陣し、
これを迎え撃った。
この地は白河口での激戦地で、
閏4月25日、会津兵は一旦西軍を退けたが、
5月1日、再び来襲したので、
西郷頼母、横山主税等が稲荷山に陣し
迎え撃ったが、激戦、数十合、弾尽き刀折れ、
戦死者数知れず、遂に敗退のやむなきに至り、
小峰城は遂に落城、城郭は焼失した。
戦後両軍は、各々戦死者の碑を建て、霊を慰めた。
この白河街道の左曲する南側に、長州藩3名
大垣藩3名の墓、北側に会津戦死者の墓と
合図藩主松平容保の題字の銷魂碑がある。
長州 大垣藩六人之墓(松並地内)
この墓には、慶応4年閏4月25日の
白河口の戦いで戦死した長州、
大垣藩将兵6名が葬られている。
大正4年まで薩摩藩7名の戦死者も
葬られていた。
明治9年6月に明治天皇が、同
41年9月には東宮嘉仁親王が
立ち寄り供養された。
付近の古写真の看板があった。
おそらくこの道の目立つ場所でキリシタンを
吊るし、見せしめにしたものと思われる。
古写真の場所の現在。
福島県心霊スポット