通称涙橋という橋があります。
一見は普通の町中にある橋なのですが…。
橋のすぐそばには案内板がありました。
涙橋の由来
柳橋は会津と新潟を結ぶ越後街道の湯川にかかる橋で
付近に道しるべとして多くの柳が植えてあったので
かつては楊柳橋と称された。
会津藩が上杉時代の慶長5年(西暦1600年)に
上杉景勝が石田光成と計り徳川家康を牽制し
12万人を動員、西へ半里程の如来堂に
幻の神指城を築造する際、要所である橋を
長さ17間、幅3間余の欄干のある堅牢な柳橋とした。
柳橋の 200米程下流の薬師川原には、
藩政時代の処刑場があり特に昔キリシタン弾圧により
寛永12年には会津キリシタンの中心人物である
横沢丹波と外人宣教師など60余名が捕らえられ
一度に処刑された所でキリシタン塚がある。
戊辰の役では、娘子軍(女白虎隊)の隊長中野竹子が
柳橋の激戦で敵弾に倒れ殉死し碑もある。
この場所には休み小屋があって
刑場にひかれる罪人は井戸の水で家族等と
水盃を交して別れを惜しんだところから通称涙橋と
呼ばれ昭和初めの木橋には涙橋とも記されてあった。
こちらが井戸の跡のようです。
ちなみに井戸の中は埋まっていました…。
下流の方に行くとありました。
キリシタン塚。
キリシタン塚
寛永12年(1635)幕府のキリスト教の厳禁令が強化されたが、会津では加藤明成が
藩主のとき、キリスト教徒の長の横沢丹波やその一族と横沢屋敷に潜んでいた
バテレン(外人教徒)たちが捕えられ、この辺の薬師河原で処刑されたという。
その言い伝えどおりこの地から犠牲者の埋骨と思われる人骨がみつかったので、
昭和37年にそれらを供養するため、このキリシタン塚が建てられた。
十字架にキリシタン塚と彫られています。
ここが薬師川原処刑場跡ですね。
キリシタン塚由来
この塚は寛永12年(1635)
12月17日以降多数のキリスト教信者が
処刑された殉教の遺跡である
郷土史家医師友田康雄同妻ふじ子氏
其煙滅を憂いこの地を譲り受けて寄贈し
信者の篤志と相俟って建立されたものである。
この塚の史実については友田康雄 鈴木茂雄両氏の
永年に亘る調査研究に負うところが多い
昭和37年6月
会津若松カトリック教会