東首塚

東首塚 心霊スポット
東首塚

東首塚1
関ヶ原の戦いの犠牲者の首を葬った東首塚。
こちらでも人魂の目撃談があるようだ。
赤い門であった。
西首塚に比べるとこちらの方が広いようだ。
東首塚2
入り口にあったお地蔵様。
東首塚3
石柱とその奥にお堂がある。
東首塚4
やはり目を引いたのはこの首洗いの古井戸

首洗いの古井戸
合戦で討ち取られた西軍将士の首は、
家康によって首実検され、その後
塚を作って懇ろに葬られました。
首実検に先立ち、首装束のため、
この井戸水を使って首級の血や土などが
洗い落されたと伝えられています。
戦国期の戦場では、首実検後は
敵味方の戦死者を弔い、供養塚を築く
というのがならわしだったのです。
中は後で確認してみましょう。
東首塚5
西首塚同様、古木の下が塚のようです。
東首塚6
古木のたもとが祀られいます。
古木の右側の石柱には
福井 関ヶ原合戦戦死者首級塚
とあります。
東首塚7
史蹟 関ヶ原古戦場 東首塚

東首塚
この塚は関ヶ原の戦い直後に、
この地の領主竹中家が築いたもので、
家康によって実検された将士の首が、
ここに眠っています。
文部省の史跡指定時に、標柱や石柵が
建てられた後、昭和17年には、
徳風会によって、名古屋から
山王権現社本殿・唐門が塚の脇に
移築されて、東西両軍の戦没者
供養堂となりました。
東首塚8
首級墳碑
この碑は、関ヶ原宿年寄古山兵四郎が首塚への思いを
込めて建てたもので、その要旨は次の通りである。
「英傑なる徳川家康が東国に於いて勢力を拡大したため、
石田三成は豊臣政権不利と見て旗を揚げた。慶長5年(1600)
9月両勢力はここ関ヶ原において激突したが、内応などの
戦況の急変により、三成側は大敗を喫した。家康は床几場において
首実検をしたのち、土地の人に、すべての首や遺骸を、
東西2ヶ所に首塚を造り葬らせた。
東軍に敵応した、西軍将士に罪がないとは言えないが、
主君秀頼のために命を捧げたことに他ならず、
憎めるものではない。故に、豊臣の危機に直面し
犠牲になった者を納め葬ることは、仁義に厚い心得の
成し得ることであり、まさに家康の教えが、今の世に
泰平をもたらしたと言えよう。
将来この首塚が、丘や谷に変わり果てることのないよう
乞い願うものである」
文化14年(1817)中国・姑蘇・楊小渓漢訳
東首塚9
先ほどの首洗いの古井戸の中。
竹のすだれを取ると鉄柵がしてありました。

岐阜県心霊スポット

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