日向義民地蔵尊
角にぽつんとあった。
石碑にはその由緒が記されていた。
御由緒
寛文元年閏八月徳川家光公の第4子
館林城に封せられ右馬頭様と称し
館林在城中延宝年間役人共其の横領を企て
一俵三斗五升の処目こぼれと称し
一斗余分に微せしかば農民の其の暴政に苦しみ、
領内の各町村民血判して敢えて直訴を企つ、
最初台之郷村字五部しやうじん場に於て会互協議したる後
台ノ郷安楽寺と申す寺にて願書を阿弥陀目安に認め
台之郷小沼庄左衛門、森尻右馬允、栗原四郎兵衛、富田村小沼久四郎、
石原村栗原三左衛門共総代八人先ず城主に歎願すれども
下役人共聴入れられず不敢止死を決して江戸に
上り直訴をなせしかば暴政直ちに御免と相成
農民の苦しみは救はれたれども直訴のの罪は免れず捕えられて
館林藩に引き渡され延宝四年二月十五日
十八人首を並べて日向村にて磔刑に処せられる、
其の際首魁たりし小沼庄左衛門家族皆殺しの
報を聞くや村民有志密談し小沼氏の系統生存を
期せんと苦心会議の上大籠の中に幼娘一名を
入れ行法院境内薮中の古井戸の中に吊し上役人の
目を眩まし生存を期す、後村民其の冥福を
祈らんがため関係町村を勧化し刑場たりし地に
元禄十年五月十日地蔵尊を安置せり今の義民地蔵尊是れなり
↓下の現代解説文
寛文元年(1661)徳川三大将軍家光の第四子である
徳川綱吉がニ五万石で館林城主になった。
このときの館林藩の城付の領地は、上野国館林領から、
新田領、桐生領、下野国佐野領、足利領までに及んだ。
綱吉は、寛文から寛永年間にかけて、領地全域の
検地をおこない、年貢の増収を計ったが、こうしたなか、
延宝三年(1675)の冬、領内の台之郷、石原、
富田(現在は太田市域)などの村で年貢徴収にあたり、
役人が「目こぼれ」と称し年貢米一俵が三斗五升のところを
一斗余分に徴収するという事件がおこった。
これに対し、山田郡台之郷村の小沼庄左衛門、森尻右馬允、栗原四郎兵衛、
富田村の小沼久四郎、石原村の栗原三左衛門をはじめとする
18人名の名主たちが代表となって、訴状を作成し、藩に申し立てを
行ったが、役人に聞き入れられなかったことから、
江戸へ上がり藩主に直訴を行った。
これによって、農民救済の願いはかなったが、
当時ご法度であった直訴を行った首謀者として
十八名は捕えられ館林藩に引き渡され、延宝四年(1676)
日向刑場において処刑された。
その後、元禄十七年(寛文元年・1704)
農民の犠牲となって処刑された十八名への報謝の意を込め、
その冥福を祈るため、日向村をはじめとする周辺の六十数か村の
村民により一体の地蔵尊が造られ、供養されてきた。
以後「義民地蔵」と呼ばれている。
ここは、日向刑場跡でもあり、江戸時代の領主と領民の
係わり、特に年貢取り立ての状況を知る上で欠くことのできない
遺跡である。
お堂。この中に義民地蔵が祀られている。
ガラス戸から内部を撮影する。
奥にあるのが義民地蔵である。
義民地蔵にズーム。
義民地蔵の顔にズーム。
穏やかな顔をしている。
内容を見るとわかるがこの日向処刑場跡は
江戸時代初期の館林の処刑場にようだ。
記録では磔。
おそらく街道沿いに晒されたものと思われる。
ここから岩鼻処刑場に移ったのであろうか。