住宅地の一角にある公園化された五万石義人堂。
明治初期の高崎五万石騒動(農民一揆)の首謀者も
ここで斬首された、高崎藩の処刑場であった。
五万石騒動義人慰霊堂
五万石義人堂記
待望した明治維新の夜明けを迎えながら
高崎藩城付50箇村のいわゆる五万石領の重税は
改められず旧領だけは依然塗炭の苦しみにあえいでいた。
耐えかねた農民は自由と平等を
願って一致結束し窮情を訴えるため減税解放
運動を起したのが有名な五万石騒動である。
激昂する憤怒をおさえ民主的に大総代3名を
選出して行動をはじめたのは明治2年秋のことであった。
しかしこの訴願も容易に聴き入れられず
やむなく直接行動に移るや藩は総代
を捕えて投獄し翌2月4日、まず2名をこの地に処刑し
更に9月7日遺る1名も刑場の露と消えた。
この悲しみを乗り越えさらに総代を
立て宿願のために闘い続けたが重ねて同志を
牢獄に失い流罪投獄に遭う者数十名に及んだ。
やがて藩知事は免ぜられ新政の恵みに浴した。
ああ先覚者の尊い犠牲と領民の団結により
ここに解放の糸口がつくられ今日の楽土を築く。
今この苦難に満ちた運動の跡をかえりみ
当時の人人の霊を慰めるため子孫等相はかり
この碑を建ててその遺芳を永遠に伝える。
昭和38年9月21日
五万石減納運動義人顕彰会
お堂の隣の古木には古いお墓が残っていました。
処刑場廃止後は火葬場になったようですが、
火葬場の移転で無縁堂というお堂があったようですが、
現在の五万石義人慰霊堂と改められたようです。