八反坊の墓所
広島県比婆郡東城町
—————————————
八反坊
江戸時代の初め、栗田に八反坊というという人が住んでいました。
八反坊は年貢の割り当てや取り立てに当っていた公事人といわれ、
弱い百姓が分限者からいじめられるようなことがあると、
いつも弱い人達に味方して助けていましたので、百姓達から大変慕われていました。
ところが反対に分限者達からは嫌われ、何とかして八反坊を亡きものにしようと、
あるとき、無実の罪をでっちあげ庄屋に訴えました。
庄屋もまた八反坊を快く思っていなかったので、
ある日、ありもせぬ罪を着せて獄に入れ、村人を扇動せぬよう
身を慎むように迫りましたが、八反坊は聞きいれず、ついに餓死しました。
百姓達は、情深く、義に厚く、村人に慕われていた
八反坊の遺言どおり、庄屋の家のよく見えるこの地に、ていねいに葬りました。
それから庄屋にはよくないことが続き、絶えてしまったということです。
その後、お墓の上に祠が建てられ「八反坊」と呼んで、
地元の人達が毎年お祭りを続けています。
一時期「のろい」の神として恐れられていた時もありましたが、
今は事業の成功、病気の全快、その他困っている人達を助けて
願いが成就することから、大願成就の神様として多くの人に親しまれています。
—————————————
付近には古いお墓があった。
これは八反坊のものではなさそうである。
木々の間に隠れるようにしてあった、八反坊の墓。
山の斜面にあった。
地元の方が管理されているらしく、きれいにされてました。
山の斜面に建てたのはやはり庄屋を見やすいようにでしょうか・・・。
賽銭箱の場所にはなにかの道具がおいてありました。
さきほどの道具は祠の中にも多数残っていました。
何に使うのでしょうか?
八反坊の墓所の裏を見ると明らかに周囲と種類の違う木があります。
昔からここが八反坊の墓として祀られていたのでしょう。
墓所付近からの眺め。
かつて庄屋の家がこの見える範囲にあったのでしょうか。
なんと墓所の付近で古銭を発見しました。
(撮影しやすいよう、白い紙の上に置きました)
寛永通宝のようです
わかりにくいと思いますので絵にしてみました。
お賽銭だったのでしょうか?
寛永通宝の時代とここが墓所だったところをみて
もしかしたら6文銭じゃ・・・とも思ったのですが。
六文銭とは、昔から人が死ぬと三途の川を渡ると信じられてました。
三途の川を渡るには六文かかると言われ、
棺桶に六文の入れるという風習がありました。
今でも六文銭をコピーした紙を棺桶に入れることもあります。
古銭は元の場所に戻してきました。
付近のカラス群が激しく鳴きはじめました。
八反坊の墓所は非常にさみしい場所にありました。
村民の恩人であったにも関わらず、
そのあとの庄屋の祟りにあった様を見た村民は
畏怖したのかもしれません。