赤沼牢屋敷跡
住宅街の一角にぽつんとあった。
裏の木製の看板にこうある。
赤沼牢屋敷跡の由来の記
此の町元赤沼という池水有し故起る所の名也
西側の内鍛治町の裏通りに牢屋敷有
牢は揚屋、大牢、新牢、つめ牢と四棟也
其の内、大牢は佐竹候時代よりの牢也
右は水府地温故に記載されている記録であります。
徳川家が水戸を領地としてからは牢屋敷は
町奉行の管理に委ねられて多くの罪人が此処の
牢に収容され囚人に関する多くの伝説も
伝えられております。
当時罪人の処刑は吉沼或いは千束ヶ原等で
行われていましたが、幕末になると藩内の
争乱が烈しくなり数多くの尊い命が斬罪に
処せられ、此処の牢獄の露と消えました。
水戸藩死事録に記載されているだけでもその数
300を越えるとのことです。
特に哀れを誘うのは武田耕雲斎とその子の処刑でした。
敦賀で処刑され水戸へ運ばれて来た夫の首を
無理に抱かされた妻とき子はその場で斬られ
幼児金吾(3才)は獄吏の膝の下に組敷かれ
刺殺されました。討つ者も討たれる者も
憂国の情によるにせよその様子は悲惨を極めた次第です。
此の地に消えた多くの人達の慰霊と恒久の平和を
祈願して昭和13年この地を取得した根本常次郎により
供養の碑が建立され更に戦後白本山妙法寺開祖藤井日蓮上人の
親筆による妙号の建碑が行われました。
120余年有縁無縁の人々此の地を訪れ密かに香華をたむけ
供養する者後を断ちません。 合掌
武田耕雲斎妻女の歌(我子に寄せて)
山吹の実はなきものと思えども
つぼみのまま散るぞ悲しき
読みにくいところもあり間違ってるとこもあるかも…
霊魂碑
牢獄であるが江戸時代の牢獄というのは
衛生状態も悪く、病気も蔓延。
また拷問も行ったためショック死もあったと言われ、
記録に残っていなくても結構な人数が亡くなっていると
言われている。