法蔵寺(累の墓)
羽生山往生院法蔵寺は文禄年間(1592-1595)開基の
浄土宗の寺である。
戦国時代このあたりに羽生一族の城郭があったが、
羽生氏滅亡後その地に堂宇が営まれたと伝えられている。
当寺は「累」の墓所として全国的に知られている。累の物語は、
江戸時代初期、慶長17年(1612)から寛文12年(1672)までの
60年にわたって繰り広げられた、親が子を、夫が妻を殺害にいたる
凄惨な出来事である。
羽生村の百姓与右衛門の後妻すぎは、夫との不仲を怖れ、
その醜く生まれついた助という連れ子の男子を殺してしまう。
その後に生まれた累は助に生き写しであったため
「かさね」と呼ばれた。
心優しい娘に成長した累は、旅に病む他国者を助け、
婿に迎えるが、やがてその醜さゆえにうとまれるようになり、
二代目を名乗る婿与右衛門によって鬼怒川で殺害される。
その後与右衛門には不幸が続き、そして死霊が
後妻との間に生まれた娘きくにとりつき苦しめたため、
飯沼弘経寺にいた祐天上人が法力をもってこれを解脱したという
実話に基づく話である。
事件から150年後、鶴屋南北の「色彩間狩苅豆」「法懸松成利剣」
あるいは三遊亭円朝の「眞景累ヶ淵」など歌舞伎、講談、浄瑠璃
あるいは清元で上演されるようになって広く世に知られるようになった。
累一族の墓には、中央に二基の仏像を彫った碑がある。
左側が累の墓、右側が助、累の墓の左がきくの墓である。
また当寺には、祐天上人は死霊解脱供養に用いたという数珠、
累曼荼羅、木像などが保存されている。
累一族の墓所
中央が累
写真左が助
写真右がきく
側面にも墓があった。
現在の累ヶ淵(推定)
昔あった累ヶ淵は地形の変化で失われてしまっていた。