仙台藩刑場跡
元禄3年(1690年)米ヶ袋刑場から移されたもので
牢舎は片平丁にあった。
この刑場は百姓や町人などの罪人が対象で、
明治維新まで178年にわたり、
磔(はりつけ)、火焙(ひあぶり)、斬首(うちくび)、
獄門(ごくもん)などの刑が執行された。
処刑された人は述べ5300人とも7000人とも言われている。
仙台藩五代藩主伊達吉村公夫人長松院(ちょうしょういん)が
これまで死者を弔う仏堂が無いことを憂いて遺言により、
延享3年(1745年)刑場の南に河南堂、北に河北堂(かほくどう)の
常念仏堂(じょうねんぶつどう)を建てた、河南堂に掲げてあった
「抜苦(ばっく)」の額は今も山の寺同雲寺に保存されている。
西を向いている石の地蔵は奥州街道(旧4号線)の東側にあったが、
昭和54年に道路拡張により現在地に移された。
この地ではオランダ医学を学んだ木村寿禎(きむらじゅてい)が
寛政10年(1798年)腑分(ふわけ・解剖)を行ったといわれ、
七北田刑場腑分供養碑が建ててあった。
住宅街の中にぽつんとありました。
最初通り過ぎちゃった…。
南無妙法蓮華経のヒゲ題目
処刑場の供養碑ですね。
こちらは首切地蔵でしょうか。
裏手の方には古いお墓や石仏が並びます。
供養碑や首切り地蔵に向き合うように
一体のお地蔵様があります。
奥州街道(旧4号線)の東側にあった石地蔵ですね。
いま刑場跡として残っているのはこの一角ですが、
この辺り一帯、結構広めに
処刑場だったのではないでしょうか。