首塚(甲越直戦地)
この塚は以前は屍塚と呼ばれ、1561(永禄4)年
9月10日の戦いの後、武田方の海津城主高坂弾正が
激戦場となったこの辺り一帯の戦死者(6000余人)の
遺体を敵味方の別なく集め、手厚く葬った塚の一つである。
これを知った上杉謙信は大変感激し、後に塩不足に
悩む武田氏に対し、「われ信玄と戦うもそれは弓矢であり、
魚塩にあらず」と直ちに塩を送り、この恩に報いた
といわれている。このことが乱世に咲いた美学と
褒め称えられ、「敵に塩を送る」という言葉が生まれたと
いわれている。
ここから東南へ約180mのところにも同じく大きな首塚がある。
昔はこの付近にいくつもの首塚があったが、
現存する大きな塚はこの二つだけであり、
小さな塚は各所に点在している。
甲越直戦地の文字が彫られている巨大な石碑。
川中島古戦場の八幡原史跡公園内にある。
すぐそばの木にはお地蔵様があった。
首塚は付近にあり、首塚の塚を崩した人には
祟りがあったという。
川中島の戦いは4次~5次まであったとされ、
この地での戦いが最も犠牲者を出した激戦地であった。