岡山の処刑場跡といえばここ柳原処刑場跡が
大体すぐに出てきます。
河原の一角にコンクリートで固められた土地があります。
ここに柳原処刑場跡の石碑があります。
柳原刑場之遺跡
そして殉教碑
不受不施殉教遺跡
徳川幕政下備前藩ニ於ケル不受不施禁
圧酷烈ヲ極ム世ニ伝ウ矢田部六人衆
即チ妙覚院日閑上人始メ河本仁兵ヱ、
同五兵ヱ、同喜右ヱ門、松田五郎右ヱ門、
花房七大夫ハ寛文8年6月19日
又法立御藤吉五郎ハ天保10年4月30日
此ノ処ニ断首サル
以来不受不施強信者ニシテ投獄、遠流
或ハ死罪ノ極刑ニ座シ 或ハ断食自害
スル者幾千万ニ及ブト雖モ(いえども)
明治9年4月不受不施再興公許ノ天日ニ
仰グ時マテ祖訓ヲ内信ニ操守ルヲ授カス
六人衆三百遠忌二当リ此ノ碑ニ録ヲ以テ
万代捨身護法ノ亀鏡(模範の意味)ナス
江戸時代、迫害を受けた宗教はキリスト教だけでなく、
日蓮宗の一派である不受不施派もそうでした。
彼らの教えは当時幕府の反感を買い、ここ岡山でも
日蓮宗信者が多く、キリシタンと同様に迫害されました。
代表的な六人衆と呼ばれる日閑を含め信者5人を
ここで処刑。
もちろん記録に残っている処刑のため、通常の罪人も
ここで処刑されたはずである。
今前方施行河川工事発掘無数白骨
因拊葬干東山刑務所墓地
(おそらく河川工事の際に無数の白骨が出てきたので、
刑務所の墓地に埋葬したと書いてあるようである。)
日蓮宗法華宗不受不施僧妙覚院日閑聖人
壇越所謂矢田部六人衆亦被斬
此地寠寛文8年6月19日也
実際の場所は近くの川の対岸付近であったと言われている。
この地は後世になって日蓮宗の信者が建てたそうである。