大分県南海部郡宇目町
宇目町にはかつて鉱山であった木浦山がある。
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木浦山千人間府
町指定史跡
昭和53年8月18日指定
大字木浦鉱山字大切
三代 茂氏 所有
千人間府とは木浦鉱山の大切坑のことで、木浦山で
一番規模が大きく産出量も多かったことから付けられた総称である。
木浦鉱山は鉱山の開発によって村が成立したのではなく、
木浦内村の中に鉱山が発見されたために木浦内村には
小庄屋、肝煎、村横目などの役人と、乙名、組頭、山目代、宗旨横目などの役人が
別に置かれた特異な支配体系となっていた。
木浦鉱山の開発起源については各種の説があるが、史実に
表れるのは慶長3年(1607)に鉛が産出されたことが記されている。
また、江戸中期に記された鉱山開発のことを伝えた一子相伝書と言われる外財根元目録略記には
「よう山の始めは豊後国大野郡木浦山を始めとして・・・」又
「よう山の始めは豊後国大野郡天神山を始めとして・・・」とある。
開発当初は露天掘に近い方法で採掘されていた。
江戸時代になると岡藩中川氏の支配となり、藩は木浦奉行、両山調役、見計役等を置き、
吹上よう・鉛の検査又は木浦内村などで産出する椎茸、木炭楮の検査業務を兼職させていた。
さらに、鉱山は農地が皆無であったので小野市組等から送られてくる米・大豆の管理、
保管又運上金徴収の任に当たっていた。
鉱山の経営方式は御手山方式、請山方式、直山方式が繰り返された。
しかし、食料の生産を伴わない鉱山では、米・大豆等の生活必需品の全てを
藩よりの供給に頼らねばならなかったので、山師は山を見立てると開発にかある一切の経費、
いわゆる銀穀を藩から前借し、生産されたよう・鉛を藩の指定した商人に売却して
前借を返済するという御手山方式がとられた。
鉱山は藩にとっても有用金属入手の場であったが、経営は小規模で家内労働を基軸としていたので、
山師が積り積もった前借を産出したよう・鉛代で皆済した例は見当らない、
むしろ山師が前借した銀穀を「捨り」(返済免除)又は「浮置年賦」(据置年払)の借置をとり、
山師の経営を立ち直らせ生産の拡大を図った。
ちなみに、宝暦2年(1752)から安永元年(1772)までの20年間の前借は
米6700石、大豆1200石、大麦120石、銀一貫、銀札六貫であったが、藩はこれを返済免除している、
前にも述べたが、小規模経営であるため山師数も
元禄期(1688~)が最も多く50人程度で、その後は30人前後の小規模経営であったと推測される。
つまり山師およびその家族労働を主とし細々と続けられていたことがわかる。
こうした木浦山の中で開発された松木平、米原、姥山、茸ヶ迫、
天狗平、田近山、天神山、桜山、尾越などあるが、なかでも
大霧嶽の大切坑は一番規模が大きく産出量は木浦山全体で最大の鋪であった。
宇目町教育委員会
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早速中へ入ってみたいと思います。
懐中電灯必須ですね。
入口付近に骨が・・・!!!
中はひんやりとしており、時々上から水が滴ってきます。
ありゃ、塞がれています。
先も落盤で道がないようです。
よくみると看板が・・・。
さて、肝心の女郎墓の方に行ってみましょう。
この千人間府よりさらに山を3キロほど登るとあります。
「木浦女郎の墓」
奥の机はお供え物やお賽銭をおく所です。
輪をかたどられた石があります。
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木浦女郎の墓
町指定史跡
昭和53年8月18指定
大字木浦鉱山字大切
宇目町所有
バスの終点木浦鉱山から車で木浦~藤河内線を3キロ余り、時間にして
15分ほどで標高750メートルの大切峠につき、この峠から1キロほど
下った所の雑木林の中に石塚が20基ばかり散見される。
これが女郎墓である、墓は川石の一つを真中に立て、
1メートル四方を同じような川石で囲んだ集石墓である。現在確認されているのは17基である。
木浦山は鉱山の発達に伴い木浦内村より新しく成立した鉱山町である。
ここは江戸時代中期には木浦町と呼ばれ、金具町、横町、梅木町、
万屋町、船座町、仲町、上町、竹田町、長戸町、生木谷、下川、森下の12に区分されている。
人口が最も多い元禄12年(1699)には、木浦・尾平(緒方町)の両山で
568人であった。木浦・尾平とも同じ位の規模であったので、木浦山は300人足らずであったと思われる。
また山師数は江戸時代を通じて35人前後とあり、これから推測すると
小規模経営で家族労働を主体としたものであったことがわかる。
しかし、良鉱が発見されたとき、あるいは茸取りの時期には周辺の村々からの
出稼ぎもあったと思われるので、こうした人の集まるときには、
赤提灯や木貸宿が繁盛したのであろうと思われる。
こうした人の集まるところに「女郎」と呼ばれる人達がいたのであろう。
これらの人々は小規模鉱山ゆえに生活は苦しく、一般的にテレビや
映画で見る女郎とはイメージがまったく違い、極めて貧しい人達であった。
したがって、死去した時は葬式や埋葬など論外で、このような雑木林の中に
うち捨てられるか廃坑に捨てられ埋められるかであった。
このように埋葬したところに申し訳程度に川石で簡単に墓碑らしくものを
作っているものが多く、人間の末路としては極めて悲哀を感じるものがある。
宇目町教育委員会
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よくみると辺り一帯には石塚がかなり散在しています。
これがほとんど完全な形で残っているようです。
江戸時代、出稼ぎでこの地を訪れた貧しい女郎達は死ぬと皆このようなさみしい
雑木林に打ち捨てられたり、埋められたりされていたのでしょうか・・・。
さぞかし無念だったと思います。
この女郎墓の探索中、焚いてもいないのに線香の香りがしました。
合掌。