千日前といえば賑わいを見せている場所であるが、
ここはかつて大阪町奉行所轄の処刑場であった。
阪神高速道路の辺りには獄門台が二基、
北向きに並べられていた。
ここに処刑場が造られたのは徳川幕府の
キリスト教徒処刑が増えたころである。
それまでは墓地であった。
明治4年に処刑場が廃止。
明治6年に墓地は移転。
この地は格安で民間に払い下げられ、その後、
ここには見世物小屋、料理屋等が集まって歓楽街となった。
江戸時代の地図と現在の地図を合わせると
おおよそ、この無縁墓地のあたりに刑場があったと推察されるが、
刑場全体で考えると背後の阪神高速道路辺りまでとなる。
処刑場になる前は墓地(無縁墓地)であったということだが、
現在も無縁墓地が。
無縁墓地の高い場所に観音像が。
さて、千日前処刑場を語る上で欠かせないのは
千日デパート火災であろうか。
千日前処刑場があった場所に千日デパートが建ち、
その祟りによって千日デパート火災が起った…という噂だが、
千日デパートがあった辺り西半分は処刑場があったころ、
死体の処理等に従事する仕事を請け負っている民間人が
住んでいる場所であった。
厳密に言うと処刑場跡ではない。
千日デパート火災は118名が亡くなった。
死者の半分以上はデパートで働いていた
ホステスで、死因は一酸化中毒死、煙にまかれて
飛び降りた事による死亡であった。