山間の道を進むと一角に供養塔がある。
割と新しい供養塔。
平成5年に建立したものらしい。
これが保瀬の大崩壊の供養塔である。
保瀬大崩壊の碑
明治25(1892)年7月25日午後2時頃、
対岸保瀬山の中腹が、巾300メートル
長さ800メートルにわたり一大響音とともに
崩壊し始め、惣ち海部川を70間の高さに寒止めた。
北岸山麓にあった井上幸太郎、井上喜太郎、
桜井矢平の家族11名、長雨を避け食を求めて
投宿していた山稼人36名は、家屋とともに
生埋となり田畑4町歩も埋没した。
戸外にあった幸太郎ら7名は難をのがれた。
降り続く豪雨に上流は、杉宇の下まで5キロメートルに
及ぶ一大湖となった。この為8戸が流失し
隣村樫谷の田の中の杉の大木が僅かにその先を
のぞかせ、轟神社旧道の鳥居の扁額が半ば水没したという。
崩壊の報に海部川筋は恐れおののいていたが、
26日午後7時頃、弱所を破った水は奔馬の如く海部谷を
流れ下った。既に23日の豪雨で決壊していた
堤防田畑の被害は増大し、未曾有の大災害となった。
事は明治天皇の御耳に達し、東国基愛侍従の差遣があり、
住民一同を慰められ復興を激励された。崩壊から100年、
山は緑と化し海部川の清流は日本一を誇るが、
自然は時に人為を絶した猛威を振う。
ここに被災の霊を慰めるとともに、山河を愛護し、
また自然を侮らず調和のとれた生活を願って
新に碑を建立する。
さて、この保瀬の大崩落を起こしたのは
母子の祟りであると書籍で発表された。
お杉・お玉の母子は村からいじめを受け、
川で無理心中をして保瀬部落に
呪いをかけたという内容のもの。
今回の調査でこの母子の墓の場所がどうしても
わからず、地元の人に聞いて回ったのですが、
どうもそういう伝説ではなかったようです。
書籍は確かに地元の人の作成だったようですが、
そんな伝説ではない、と一蹴されてしまいました。
確かに書籍の伝説通りなら、
保瀬部落は全滅していないと
呪いの達成ではありません。
が、保瀬の大崩壊では確かに集落は無くなってしまいましたが、
全滅したわけでもなく、無関係の山稼人(出稼ぎの人達)まで
犠牲になっています。
一体どうなっているんでしょうか?
母子の墓の前で謎はさらに深まってしまいました。