東京都新島村にあるコレラ罹災者の墓。
とある山の入り口に石碑がある。
南無妙法蓮華経の供養塔である。
裏側には読めない字もあるが
新島虎列刺病罹災百回忌之?
昭和53年10月 長栄寺廿七世日新代
遺族有志一同
とある。
新島炉ばなし/武田幸有著によると、
石碑には「虎列刺病死亡者之塔」と刻まれてあり、横に
「明治12年12月・石工大沼喜右衛門」とあり、
他に4名の名が刻まれている。
この年、コレラが大いに流行し、村人を恐怖の底に
おとしいれたことがある。
このことについて、年寄にたずねてみた。
「多くの人がコレラでやられました。
死ぬと夜中にコッソリと運んで埋めたものです」
衛生事情も人々の意識も、今日とは極端に異なる時代のことゆえ、
伝染病であるがゆえに、「世間体」もずいぶんと、
はばからねばならなかったことであろう。
純朴な島人が、純朴なるがゆえに、一層恐怖と
悲しみと、悪病にとりつかれた不幸とに、
うちひしがれつつ、暮夜ひそかに、首うなだれて黙々と
棺を運ぶ情景が目に見えるようである。
病魔が去ったあと、このような不幸が再び島を
おびやかすことのないよう、また高熱にもがき苦しみながら
息をひきとった人たちの霊が、安らかに成仏できるようにと
念じつつ、この碑は建てられた。
と、あるがおそらくこれは古い塔のことを指していると思われる。
現在のものは昭和53年建立なので。
さらに少し山を上がると小さな墓石が見えてきた。
人のお墓にしてはかなり小さい。
墓石に彫ってある名前からペットのものと思われる。
付近には小さなペットの墓が点在している。
ペットセメタリー(ペット墓地)といったところだろう。
新島の名産品のひとつにコーガ石があり、
この石は加工がしやすい。
新島の人の信仰心の厚さが見てとれる。
さらに先に上がると人のものと思われる古い墓石や、
小さな建物の跡があった。
ここがかつて明治時代に新島にコレラが流行った際の
犠牲者の墓地群である。
この小さな建物の跡はコレラ犠牲者を火葬にした
いわゆる「焼き場」の跡と言われている。
ちなみに石を組んだだけの焼き場の跡らしきものもあった。
手入れされている墓石もあれば、
草木に覆われてしまった墓もある。
こちらは砂浜の砂が付近にあり、おそらくは手入れを
しているものと思われる。
新島の墓地の特徴である。
奥にも墓石があり、この山にはかなりの数の墓石が
点在している。
墓石に刻まれた年号にはいずれも明治12年の文字がある。
「新島の歴史 伊豆諸島東京移管百年史 別刷」編さん委員 前田長八 著では、
昭和10年のコレラ病死亡者の墓石を調査したところ、
57基存在し、1墓石に4人の名があるものがあった。
明治12年9月13日から12月20日までの約三か月間に、
本村で死亡者180名を数えた虎列刺病(コレラ病)であり、
死亡者を出した家は107戸で、全村の約三分の一に及び、
一家で5人死亡した家が2軒もあった。
とある。
かなりの数のお墓が点在している。
山も草木が増え、お墓参りも大変になったことから、
百回忌供養塔を建てたのではないだろうか…
通常の墓地に埋葬せず、離れたこの山の中に埋葬した点など、
当時の島民がコレラという伝染病で死んだ事に対する
世間体を考えたことが強くうかがえる。
ここが有名になったのは稲川淳二氏のDVDからのようである。