里見公園内にある夜泣き石
「夜泣き石」伝説
伝えによると、国府台の合戦で北条軍に敗れた
里見軍は多くの戦死者を出しました。
このとき、里見軍にの武将里見弘次も戦死しましたが、
弘次の末娘の姫は、父の霊を弔うため、
はるばる安房の国から国府台の戦場にたどり着きました。
未だ、12、3歳だった姫は、戦場跡の凄惨な情景を目にして、
恐怖と悲しみに打ちひしがれ、傍らにあったこの石に
もたれて泣き続け、ついに息絶えてしまいました。
ところが、それから毎夜のこと、この石から悲しい泣き声が
聞こえるようになりました。そこで里人たちはこの石を
「夜泣き石」と呼ぶようになりましたが、その後、
一人の武士が通りがかり、この哀れな姫の供養をしてからは、
泣き声が聞こえなくなっらといいます。
しかし国府台合戦の記録には、里見弘次は永禄7年(1564)の
合戦のとく15歳の初陣で、戦死したことになっています。
この話は里見公園内にある弘次の慰霊碑が、もと明戸古墳の
石棺近くに夜泣き石と共にあったところから、弘次にまつわる
伝説として語り伝えられたものと思われます。
里見広次並びに里見軍将士亡霊の碑
永禄7年(1564)1月4日、里見義弘は8千の軍勢を
もって国府台に陣を構え、北条氏康の率いる2万の
兵を迎え撃ちました。しかし、8日払暁北条軍は
寝込みを襲い里見の陣地目がけて一斉に攻撃をかけたのです。
鬨の声に驚いた里見軍は「あるいは鎧、太刀よ馬に鞍おけ
と叫びまら太刀一振り鎧一領に2人3人取付けて我よ人よと
せり合い、兜許りで出づるもあり鎧着て空手で出づるもあり」
という狼狽ぶりを呈しました。
この合戦で敗北し里見軍は里見広次、正木内膳らをはじめとして
戦死する者5千名と伝えております。
その後里見軍戦死者の亡霊を弔う者もなくやっと文政12年(1829)
に至って里見諸士群亡塚(左側)里見諸将霊墓(中央)が
建てられ、また年代は不詳ですが石井辰五郎という人によって
里見広次公廟(右側)が建てられました。
ここに265年の歳月を経てようやくこの地で討死した
里見軍将士の亡霊が慰められ、今日に残されたものです。
里見諸士群亡塚
里見諸将霊墓
里見広次公廟
夜泣き石は全国各地にありますね。
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