富岡吉利支丹供養碑(千人塚)は南国な感じの木々に
囲まれ、存在していた。
富岡吉利支丹供養碑
寛永14年(1637年)に起こった
天草・島原の乱で討ち死にしたキリシタン一揆軍の
首級1万余りを三分して埋めた一つがこの首塚である。
この地に正保4年(1647年)鈴木重成代官が慰霊のために
供養碑を建立したもので、碑文は山口瑠璃光寺住職
中華珪法の撰である。
実は石碑に近づいて撮影していたところ、
近くの塀から猫が現れ、ニャーニャー鳴いてきました。
石碑を離れると鳴くのをやめてこちらをジッと見ていました。
…千葉の心霊ホテルといい、猫が絡むとなんか怖い
近くには富岡城があり(水曜日は休みでした)
そのふもとにはアダム荒川殉教の地が。
アダム荒川殉教の地(推定地)
アダム荒川は1552年頃の生まれで、キリシタン大名
有馬晴信の領地であった島原半島南有馬の荒川(現吉川)の出身です。
彼が天草志岐へ来たのは、志岐にセミナリヨ(神学校)ができた
1591年頃で、彼は教会で看坊(神父の助手)として教会を守っていました。
ところが、1614年徳川家康のキリシタン禁令が下ると、
富岡城代川村四郎衛門は、天草富岡の領主である肥前唐津の城主
寺澤広高の命令に従い、上津浦南蛮寺のマルコス・フェラロ神父と
志岐教会のガルシャ・ガルゼス神父を追放しました。
ガルシャ・ガルゼス神父に代わり教会を守っていたアダム荒川は、
3ヵ月にもわたる迫害にもめげず、信仰を守りとおす態度を
とり続けたため、とうとう斬首の刑に処されることとなりました。
刑は、富岡城下の海岸で実行されたとの当時の神父たちが
書き残した記録から、この附近で処刑されたと推測されます。