心霊峠(キリシタン塚)

心霊峠(キリシタン塚) 心霊スポット
心霊峠(キリシタン塚)

テレビで心霊峠として取り上げられた佐渡島にある峠。
正式名称は中山旧道のキリシタン塚。
心霊峠(キリシタン塚)
キリシタン塚
佐渡市
ここから入り口に入ってキリシタン塚まで
だいたい700mくらいです。
心霊峠(キリシタン塚)2
中山旧道
江戸時代に公道として整備された相川街道の一区間で、
相川札ノ辻と相川小路(沢根)を結びました。
開通は寛永5年(1628)頃とみられ、下相川の最盛期には、
上納金銀(御用金)や年貢米の運送、江戸から赴任した
佐渡奉行らの往復、水替無宿人、国中の商人など
様々な人や物資が行き交いました。
心霊峠(キリシタン塚)3
旧道を上がっていると隣に中山トンネルが見えます。
心霊峠(キリシタン塚)4
途中にあった「阿弥陀堂跡」
現存していませんが、おそらくはこの先で殺された
キリシタンの供養の為に建立されたのかもしれません。
ここからキリシタン塚まで200m
心霊峠(キリシタン塚)5
しばらく歩くと開けた場所に出ました。
峠の茶屋跡
国仲と相川を結ぶ往還道で、八百屋町の
庄七が家作りして煮売りを始めたのが
文化12年(1815)茶屋はできた最初の記録である。
佐渡奉行の日記に「相川の町が見えて
八畳とそのほか三間」の部屋があったとし、
ひと休みして江戸からの長旅で汚れた着衣を
着がえた。
唐丸籠で送られてくる諸国の若い無宿者たちには
茶屋で甘酒がふるまわれたが
「ここを下れば金山だぞ」といわれて、
お代わりする者がなかったという。
いまは廃道で、周辺から伊万里、唐津焼などが
出土する。
心霊峠(キリシタン塚)6
キリシタン塚はすぐそばになっています。
公園化されているようにも思います。
キリシタン塚
全国で行われたキリシタン弾圧は佐渡へも及んだ。
金山の水銀製錬法はキリシタンが伝えたといわれ、
佐渡にもたくさんの信徒がいた。
寛永14年(1637)およそ百人の信徒が処刑された。
キリシタン塚は、その処刑場跡と言われている。
大正元年(1912)大江松雄が発見し整備した。
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丘に上がれる場所にマリア像がありました。
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子どもを抱いたマリア像。
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キリシタン百人塚 記念碑
キリシタン塚の正式名称がキリシタン百人塚のようです。
心霊峠(キリシタン塚)10
丘を上がるとキリスト像がありました。
佐渡殉教地百人塚の歴史
佐渡ヶ島に初めてカトリック宣教師が来たのは1619年
イエズス会のデ・アンジェルス神父、続いて2年後の
アダミ神父であった。当時、キリシタンに対する弾圧は
全国に広がり、三代将軍徳川家光の時代には、
一層厳しくなり、江戸でデ・アンジェルス神父が
50人のキリシタンと共に火あぶりにされた弾圧は
その幕開けであった。
寛永14年の秋に起きた島原天草の乱の弾圧後
幕府はキリシタン狩りを強化した。
そして安全と言われていた佐渡にも弾圧がおよび、
踏み絵等によって摘発され逮捕された。
佐渡の歴史について書かれた「国略記」や「佐渡年代記」には
『今年肥後国島原の乱により、中山という所において
「死刑」を行う…』と記録されておりそれは1638年の出来事で
あったとよみとれる。ここ中山峠で殉教をとげた百人余の
キリシタンは身分の低い貧しい人々であった為か
名前は一切記録に残されていない。いわば指導者のいない
無名の人々であった。佐渡における
唯一のキリシタン殉教の地である。
中山峠をはさんで三ヵ所の塚は昔から人々に百人塚と呼ばれてきた。
明治になって伝道師の大江雄松によって買い取られ、
周辺はカトリック教会の墓地として利用され現在に至っている。
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キリスト像は赤い模様があり、ここでの処刑を物語っています。
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キリスト像の背後には墓が並んでいます。
キリシタン塚を墓地として整備しているとのこと。




新潟県 佐渡島心霊スポット

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