東京都新島村にある獄門塚。
史跡 獄門塚
流人の処刑は普通、絞首刑で向畑の刑場で、執行されたが、
この獄門塚の9名は、処刑場から遠く離れた
この場所で獄門というさらし首の極刑に処せられた。
獄門塚は脱島計画をした9名の流人が獄門刑を受けたその碑である。
碑の表面には刃の字を上につけた戒名が刃舟以下8名刻んである。
事件は、享保3年(1718)9月と、翌年4月に
新島へ流された流人のうち、9名の者が共謀して島抜けを計画し、
これが露見して入牢、江戸代官に注進の結果、
享保4年7月23日に判決書が届き、新島で「獄門」の刑に処せられた。
宝暦4年(1754)に流罪となった20才の青年久松が
3年後の宝暦7年に9名の供養のため、この獄門塚を建てたもので、
処刑後39年が経ている。
久松はその後、明和3年(1766)に赦免となり、翌年5月8日に離島している。
とある。
江戸時代に処刑罪人の供養は禁止であったが、
新島では島役人も許可しているほど寛容であった。
いかに島民が信心深く、流人にも優しかった事が
伺える内容である。
獄門塚の墓石。
新島では絞首刑しか行われていなかった。
島抜けの罪は重罪であったが、獄門(斬首後、さらし首)は
重い裁定となった。
もう一つの獄門塚の墓石
新島に首切り専門の浪人などいない。
(江戸は山田浅右衛門という首切り専門の浪人がいた)
当然獄門の罪でで首切りを実施したのは
経験のない島民や島民から指示された流人。
首切りを慣れていない者が実施した場合の惨状はひどいものである。
首を斬り損ね、肩に命中したりすればなかなか絶命することもなく、
首切りをやり直す。する方もされる方も地獄であったはず。
獄門塚から道を挟んだ場所には
南無妙法蓮華経のヒゲ題目があった。
おそらくは獄門塚の処刑場供養のために建立したのではないだろうか。
建立は明治時代のようだ。
獄門塚とヒゲ題目の間の道はおそらく新しく作ったもので、
ここは山合いのさびしい場所だったのではないだろうか。
晒し首を島民が見たくなかったという推察ができる。