穀見野刑場跡
江戸時代から明治初年まで刑場があった場所である。
当時の道は、現道より山寄りにあり、
その西側約1.7ha程が刑場になっていた。
江戸時代、郡上の農民は各種の税に苦しんでいたが、
宝暦4年(1754)から宝暦8年(1758)にかけて遂に一揆に及んだ。
全国三大農民一揆の一つに数えられている
「宝暦騒動」であり、八幡城主12代金森頼錦公のときであった。
この穀見野は、百姓衆の集合場所ともなったが、
遂に傘連判状をつくり、続々と代表を江戸へ送り、
駕籠訴・箱訴など直訴に及んだのであった。
その結果、幕府評定所の厳しい取調べを受けて
牢死も続出した。
百姓側の死罪14名、金森藩は改易、
幕府重臣の処分14名余という大きな事件となった。
また、死罪のうち「前谷村 定次郎・歩岐島村 四郎左衛門・
寒水村 由蔵」3名の首は、宝暦9年1月16日
江戸から穀見野に到着。
18日から20日まで16人の番人をつけて、さらされたのである。
後世これらの霊を慰る為、郡上各地に
「宝暦義民碑」が建てられ、郡上おどりの中の
「やっちく」の歌詩にもなって今に伝えられている。
この墓標は宝暦3年に刑場の供養塔として建立され、
刑場にあったものをここに移設したものであり、
石仏は郡上街道穀見野の守りとして建てられていたものである。
石仏・石碑が並んでいる。
移転時に周辺の地蔵や石仏をまとめて祀ったのだろう。
宝暦義民殉難者供養碑
宝暦騒動で亡くなった農民を偲んだもの。
南無阿弥陀佛の念仏碑。
これが処刑場跡地にあったと思われる。
現在も地元の人に大切にされているようです。