少し入ったところにありました。
割とわかりにくい…?
看板には簗瀬(やなせ)八幡平の首塚
隣には石塔があった。
お堂の前の看板にはこうあった。
簗瀬(やなせ)八幡平の首塚
この首塚は、碓氷川北岸の河岸段丘上に位置する
旧原市町12号墳(円墳)の墳丘に幅1メートル、
長さ2メートルの穴を掘り、そこにおよそ
150体分の頭蓋骨を埋めてあったものである。
この首塚は、昭和6年3月10日に墓参りにきた
小学生によって偶然発見された。その後、
昭和27年12月に東京大学人類学教室鈴木尚博士によって
調査された、調査の結果、古墳の石室の外側に
約150個分に相当する頭骨が山と積まれ、その上を
天明三年(1783)の火山灰がおおっていることがわかった。
不思議なことには頭骨には下顎がなく、四肢骨も
発見されていないところから多分どこか別の場所に
埋葬されていたものをここに仮葬したものと推定される。
これらの頭骨を人類学的に研究したところ、
今の日本人にくらべて長頭・短顔・広鼻で鼻の付根が低く、
中世の日本人の特徴を示している。これらの人骨には
刺創もあるところから考えて恐らく戦国時代に近くの
城が陥落する際の犠牲者と考えられるが、
当時遺体をまとめて埋葬したものを、江戸時代中期又は
それ以前に村民によって偶然発見され、
ここに改葬されたものと思われる。
この首塚がいつ誰によって造られたかを示す史料は
残されていないが、永禄4年(1561)に武田信玄が
この付近帯に八幡平陣城を築き、安中城と
松井田城の間を分断した。当時、松井田城主安中忠政、
安中城主安中忠成親子は、箕輪城主長野氏に属し、
武田信玄と戦いを交えていた。
この首塚は安中市の中世を物語る遺跡であり、
首塚で出土した人骨は貴重な人類学上の資料である。
お堂の中には仏像が一体。
八幡平首塚供養塔
供養塔の裏には祠があった。
こちらも供養塔なのだろう。
こちらは八幡平の首塚の発掘調査時の写真が
はがきになったもの。
「八幡平首塚萬霊堂内部」とある。
八幡平首塚発掘の一部
こちらも古はがき。
上の古はがきとほぼ同時期に撮影されたと思われる。